のっぺり顔のアイヌ人
「ウポポイ」なるものが開業したそうです。
北海道にほりの深い顔立ちのアイヌ人がいて独自の文化があったことは、子どもの頃から知っていたけど、今更なんで国立の博物館なんだろう?
「ウポポイ」開業記念式典
— NHKニュース (@nhk_news) 2020年7月11日
失われつつあるアイヌ文化を復興・発展させる拠点として、国が整備した「国立アイヌ民族博物館」を中心とする「ウポポイ」は12日、北海道白老町で開業します。
愛称の「ウポポイ」は、アイヌ語で「大勢で歌うこと」を意味します。https://t.co/qYYv7uZcTP pic.twitter.com/kGlYnSWg0f
続縄文時代
これまでは何となく、日本の北と南に毛深くてほりの深い顔立ちの人がいることが、ロマンだわぁと思っていたのです。
学校で習う、いかにも縄文人て感じがして。
それが濃く残っているのかしら、と勝手にワクワクしてました。
日本列島に広く分布していた縄文人がいて、その後、渡来人と交わり次第にそれが弥生時代へと向かって行ったけど、北海道では縄文時代が続いていた。
それが続縄文時代。
本州とは違った文化や交流の進み方をしたんだろうなぁ。
アイヌ人は10世紀以降、樺太から南下して北海道の北半分を占めていたオホーツク文化人を排除・同化しながら全道に進出し、さらに11世紀前半には樺太南部、13世紀には千島へも進出、15世紀にはカムチャッカ半島まで活動圏を拡大したと考えられている。[1]アイヌ文化はアイヌモシリ(北海道・樺太)で13世紀に成立したと考えられているが、アイヌは文字を持たなかったため、文献史料が十分ではなく、アイヌ文化成立の経緯について考古学や文献でその経緯を十分に跡付けることは未だ困難である。しかし基本的には、北海道の前時代にあった擦文文化やオホーツク文化、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。 擦文文化に継承された続縄文時代の土器の文様には、アイヌの衣装に描かれる模様(アイヌ文様)との類似性があると指摘されるが、アイヌ文様は黒竜江流域や樺太中部〜北部の諸民族の文様とも類似しており、その発生・系統を実証することは困難である。 オホーツク海南沿岸で栄えたオホーツク文化には、ヒグマを特別視する世界観があった。これはアイヌ文化と共通するが、擦文文化の遺跡からはこれをうかがわせる遺物は検出されていない。アイヌにとって重要な祭祀である熊送り(イオマンテ)が、オホーツク文化(今日のニヴフに連なる集団によって担われたと推定されている)に由来する可能性も、示唆されている[2]。 また、擦文文化からアイヌ文化の生活体系に移るに伴い、土器の製作や使用が廃れ、その代わりに本州から移入された鉄器や漆器が生活用具として定着した。この点からは、アイヌ文化を生んだ契機に日本との交渉の増大があると考えられている。また、住居がそれまでのかまどを備えた竪穴式住居から、囲炉裏のみでかまどが排除された掘立柱建物・チセへと変貌していった。
アイヌが現れたのは10世紀以降?
樺太だとか北方の方から南下してきた部族によってオホーツク文化が形成されて。
アイヌはその後に現れた?
オホーツク文化人を飲み込み13世紀頃にアイヌ文化を形成していった?
更に千島列島や樺太にも進出していくようなんだけど、狩猟民族で国家とか領土の概念を持たなかったようです。
アイヌといっても一枚岩ではなくて、白老町は有名ですが、ほかの地域でもいろんな部族があったみたいです。
そして和人とも交易をしていたんですね。
アイヌ人だけが先住民族
はたして先住民族なのか?
1135年に函館に船魂神社ができているんだけど、神社なら和人だよね。
北海道にある縄文遺跡はどう説明するのだろう。
オホーツク文化や続縄文時代、擦文文化はなかったことになるのかな。
広い北海道の北の方にアイヌ人が、南の方に和人が暮らしていたんだよねぇ。
申請すればアイヌ人になれる
DNA鑑定もできず、申請してアイヌ協会がみとめればアイヌ人になれるとか。
逆にいえば本物のアイヌの血を引く人が、認定されなければアイヌじゃないということに。
協会のさじ加減で決まるのかぁ…
本物のアイヌの文化や北海道の歴史は興味深いし、知りたいけれど『ウポポイ』なるものは本物なのだろうか。
怪しい展示品、アイヌ文化とは関係ない展示品もあるらしく年表もないとはどういうことなんだろう。
のっぺり顔した自称アイヌ人が運営する施設は本物なのだろうか。
新たな利権を生み出しただけではないだろうか。
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