明治は遠くなりにけり
ずーっと行きたいなぁと思っていた、富岡製糸場へ行って来ました。
昔の建物だとかが好きなんです。
レンガの洋風建築物は、文明開化、THE明治って感じでワクワクしてしまいます。
2014年に世界遺産に登録されると、当時は観光客が押し寄せていましたね。ほとぼりが冷めたら行こうと思ってましたが、武漢肺炎もあってかとても空いていました。
密にならないように、人数の制限があったり、そこかしこにアルコールスプレーがありました。観光客側も自然と距離を取って見て回ってました。
(東置繭所)
繭の保管をしていた所。東があれば西側にも。
江戸時代末期、鎖国政策を変えた日本は外国と貿易を始めます。その当時最大の輸出品は生糸でした。生糸の輸出が急増したことにより需要が高まった結果、質の悪い生糸が大量につくられる粗製濫造問題がおきました。諸外国から生糸の品質改善の要求、外国資本による製糸工場の建設の要望が出されました。
明治維新後、富国強兵を目指した政府は、外貨獲得のため、生糸の品質改善・生産向上を急ぎます。しかし当時の民間資本による工場建設は困難な状況であったため、洋式の繰糸器械を備えた官営の模範工場をつくることを決めました。
この模範工場の基本的な考え方は主に3つでした。1つ目は洋式の製糸技術を導入すること、2つ目は外国人を指導者とすること、3つ目は全国から工女を募集し、伝習を終えた工女は出身地へ戻り、器械製糸の指導者とすることでした。
こうした考え方をもとに雇い入れられたフランス人、ポール・ブリュナの指導のもと、西洋の技術を取り入れた官営模範器械製糸場(富岡製糸場)が設立されたのです。
全国にあるレンガ造りの建物もそうであるように、あのレンガは瓦職人さんが焼いたもの。
西洋の工法を日本の職人技で作った、日本の近代化にこういった職人の活躍があったんだよね。
1872年(明治5年)開業の官営模範工場。
初期の女工の大部分は士族の娘さんだったそうです。労働時間も7時間45分、日曜日はお休み、年末年始と盆休みも10日ずつあり、医療費も会社持ち、夜学など教育の場もありました。
制服もワンピースと白いエプロンでなんだか可愛い。
製糸場と聞くと『あゝ野麦峠』や『女工哀史』を思い浮かべるけど、ここは官営模範工場なのでブラックじゃなかったんですね。
その後、民間に払い下げになり、三井家(1893明26年〜)、原合名会社(1902明35年)〜、片倉(1939昭14)と続きます。
官営だったのは20年程。
その頃になると労働時間も13時間とか休日も月2、3日になっていきます。
夜学や手習いはあったようですが、疲れて参加する人は少なくなっていきました。
段々とブラックになっていったんでしょうか。
(繰糸所入り口)
戦後は、労働環境も改善され福利厚生も充実。
そして昭和62年まで操業を続けました。
広大な建物だったので、近代の機械を導入しても広さが十分あり、取り壊されずに残ったんです。
100年後を見据えていたんですね。
明治時代の息吹を感じつつも、何故だか懐かしさが湧いてきました。
古い繰糸所に残っている機械は、おそらく昭和時代のもの。
私が幼かった頃、まだ古い建物が残っていて、中に昭和の物を置いて、普通に生活していたからかな。
(イメージ)
通っていた小学校の校舎も木造で、一番古い所は明治時代のもの。窓もサッシではなく木枠でした。
渡り廊下の感じや、今は朽ち果てた女工さん達の宿舎も、昔の校舎に似てる…
古くて少し暗くて、冬は寒くて夏はむせるほど暑くて、巨大な扇風機が回っていた町工場。
時間の止まった繰糸所の中に入ったら、そんな匂いや風景が浮かんできました。
明治時代は歴史で、その時代を生きた人はもう居なくなったけど、私がまだ幼かった頃、70年前は明治時代だし、大正生まれがまだ現役。
今思えばそんなに遠くない昔だった。
私にはちょっと昭和ノスタルジーでした。
ポチっとお願いします
励みになります
↓↓